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横浜「絹の道」物語 4

B  生糸の流通経路
  1  養蚕と集荷

生糸は古くからの日本の産品である。土地や痩せ米穀などの生産に適さない山間地では、盛んに養蚕が行われ生糸が生産された。現在の長野県から群馬県の山間部に広くその生産地は分散している。

養蚕は基本的に農家の副業である。狭い田畑を耕作しつつ、養蚕を数少ない現金収入得るための副業とすることが盛んであったといわれる。生糸から生産される絹織物は贅沢品である。農家がそのまま衣服とすることはなく、山間の村落で加工・消費されることも稀であった。
繭から生糸に加工された絹は、地元の商人の手によって近隣の宿場の問屋へと集荷され、江戸を経由して京都などへ送られたのである。
個々の農家を回って生糸を集める商人から、問屋へ。問屋は江戸の取り扱い商人に集荷された生糸を纏めて送り、江戸の生糸商人は回船問屋を使って上方の商人にそれを売る。上方の生糸商人が京都・西陣などの絹織物業者へ、それを販売する。そのような流通システムが江戸末期には完成していた。

関東から東北に至る養蚕地帯だが、生産された生糸は、主要な織物産業が集積する関西への輸送に便利な、最南端の八王子周辺に集荷されるのが一般的であった。

八王子には生糸取引の市場があって、取引する商人で大変に賑わっていたという。大小の商人の手を経て、八王子の生糸市場に集荷された生糸は、その多くが江戸・日本橋の商人に売却され、中山道や相模川によって江戸湊に輸送されていた。関東近郊で消費される低品質の絹織物を生産するのも八王子近郊であった。
東京の西の外れにあって、多摩ニュータウンに代表されるベットタウンとしての印象が強い八王子・日野地域であるが、明治維新前には流通拠点・産業拠点として大変賑わっていて豊かな地域であったことは、むしろ現代の東京人にとっては意外なことに違いない。

八王子と並ぶ生糸の流通拠点が群馬県・高崎である。高崎には東北地方そして中山道を経て信州からの生糸が集荷されていた。
高崎及びその周辺も、八王子と同様に生糸取引と絹織物の生産で栄えていた。高崎に集荷された生糸も、やはり江戸商人に売却されたという。その輸送には主に利根川の水運によって行われたようである。幕末の統計資料は少なく不正確であるが、江戸湊へ入荷する生糸は、海外への輸出が急増するまでは東北方面から水運により運ばれたものが多かったと言われている。
江戸時代の輸送費は総じて高い。遠距離からの運搬は相当に高く、特に輸送方法が規制され輸送量が限られる陸路による輸送は特に高額であった。水運は相対的には低額であるが、生糸・絹などの輸送には汚損などの心配があり、日数も相当に要するため、一概に有利ともいえない状況であったという。

横浜貿易が本格化するまで、東日本全域で生産された生糸は八王子そして高崎の二大拠点に集荷され、最終的には江戸・日本橋への集荷されていた。
高崎に集荷されたものは、江戸への運搬費用が高く品質も低かったために、養蚕農家などからの買取価格は低かったようである。一方の八王子に集荷される関東方面の生糸は養蚕農家にとっても高く売れる「美味しい商品」であったといえるだろう。八王子周辺、武州(東京西部・埼玉)や相州(神奈川)の養蚕は、江戸への距離の近さ、すなわち輸送費の低さが利点であった。

その有利を決定的にしたのが、横浜開港である。
外国商人の生糸購入単価が同一な状況にあって、横浜への輸送費用が圧倒的に低く利幅が大きい八王子周辺産地は、年々生糸の生産量を増加させ他国(藩)産生糸を圧倒していったのである。

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