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横浜「絹の道」物語 3

2 横浜が独占する生糸貿易

当初試行錯誤があった輸出品だが、まもなく茶そして生糸が横浜では圧倒的割合を占めるようになった。

生糸の産地は信州から上州にかけての山間部である。外国貿易が禁止されていた江戸時代にあっては、集荷された生糸は主に上方(関西)に送られて絹織物に加工されていた。その南端にあって集荷・加工の重要拠点であったのが八王子である。上州方面からは中山道で、信州方面は甲州街道経由で、秩父方面から大小の陸路で、八王子に集荷された生糸は江戸湊に送られ、大型廻船に水路で上方に送られていたのである。

八王子と横浜は地図で確認すると意外にも近い。横浜と江戸・日本橋そして八王子をそれぞれ線で結ぶと、ほぼ等距離の30キロほどである。一方で八王子と日本橋は40キロ近くある。
横浜開港により生糸が有力な貿易品とわかると、八王子から生糸は横浜に直送されるようになったのである。

八王子には生糸の市場があった。そこで生糸を買って横浜に持ち込むのである。商品経済が成熟していた江戸末期の市場では生糸の売買は実質的に自由である。横浜で一儲けしようと思う投機的商人が多数登場し、事実として生糸貿易で莫大な富を築いていくのである。
生糸(絹)は、重量あたりの単価が高く利幅の厚い商品として、輸出入双方にとって魅力的な商品であった。

生糸の主生産地に近接しており、八王子に生糸を集荷し輸送する流通システムが既に整備されていたことから、生糸貿易は横浜が事実上独占した。
幕末の開港から明治時代を通じて、日本からの生糸・絹織物の輸出のほとんどすべては横浜から行われていた。その独占が崩れるのは関東大震災で横浜の港湾施設が壊滅的被害を受ける大正末のことである。

江戸五街道は、日本橋を拠点に放射上に整備されていて、一定間隔で設けられた宿場が宿泊や荷役など旅の便宜を提供してきた。江戸の物流は水運が主だが、数少ない陸上物流は、宿場ごとに設置された問屋網により担われてきた。正式街道での物流には厳格な規制があり、荷物は宿場から宿場へと順送りに受け渡し、直送することは固く禁止されていた。

八王子と横浜の間には、幕府公認の街道はない。幕府公認の街道がない地域では、事実上の道があるのみで街道で提供される一切の便宜は当然ない。
八王子と横浜を結ぶ「絹の道」はそんな道の一つに過ぎなかった。「浜街道」という別称は、あくまで俗称で、宿場や問屋が設けられた正式の街道ではないのである。

その横浜「絹の道」により、膨大な量の生糸が横浜への運ばれたのである。
その輸送方法は、八王子で購入した生糸を、別に雇った牛馬荷役の専業者により直送するものであった。農家の副業的に発展した輸送業者は、幕末には専業化がすすみ、自由競争により運賃も決まったようである。

生糸相場を見ながら、八王子から直送される生糸は、一昼夜ほどで横浜開港場に到着したと言われている。その利益は大きく、莫大な富が流通業者・生糸生産者・養蚕農家に幅広く蓄積されていくのである。

その富とともに文化も流入する。
西洋人の往来によるものはもちろんのこと、西洋の先進的な政治思想や理論、そしてキリスト教もこの地域に深く浸透していくことになる。

江戸封建時代の儒教文化と全く異なる文化環境が、「絹の道」に沿って形成されていったことが、その後の日本の政治的変動に少なからず影響を与えていくのである。

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