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横浜「絹の道」物語 1

横浜の北、丹沢に連なる丘陵地に沿って、横浜から日野・八王子そして遠く秩父へと至る街道がある。通称を「浜街道」、横浜へと至ることから名付けられた街道である。

浜街道の歴史は新しい。幕末、横浜開港とともに絹の輸出のため往来が急増した「絹の道」なのである。

現在の国道16号線に概ね重なる旧道の道筋は、多摩ニュータウンを始めとする都市化によって、今やほとんどは辿ることが出来ないほど失われている。八王子の南、鑓水峠のごく一部が偶然にも奇跡的に自然公園として、往年の姿をわずかに残すばかりである。

幕末の動乱期に突如として脚光を浴び、明治の10年代には早くも失われた八王子と横浜を結んだ「絹の道」。
遠く上州・甲州・武蔵の生糸が八王子に集荷され「絹の道」により横浜港へ輸出のために運ばれた。鑓水峠の旧道は中央が大きく窪み、その往来の激しさを今に伝えている。

その主役は、八王子と町田の中間あたりにある狭い谷間の村落である鑓水商人であった。
八王子の生糸市場で買い付けた生糸を、横浜の売り込み商人に売ることで、鑓水商人達は莫大な富を築き上げた。

その富は、幕末動乱の時期に政治的に大きな役割を果たし、同時に広く多摩の丘陵地帯へ先進的な西欧文化を運んだ。明治維新後の自由民権運動が多摩地区で隆盛を極めたのは偶然ではない。「絹の道」が生み出した富と文化が基盤となって、西欧の先進的な思想に基づく政治運動を生み出したのである。

その「絹の道」が明治17年唐突に歴史から消滅する。不思議なことに相州・武州の生糸生産だけがこの年に壊滅し、翌年に秩父事件で終結する生糸不況による一連の動乱が多摩地区を中心に発生したためである。
これにより、明治維新以来、明治政府にとって最大の抵抗勢力であり不安要因であった自由党と自由民権運動は勢力を失う。

生糸生産は上州や信州の大規模資本に集約され、末端の国民に広く「富」を生み出してきた生糸輸出は、大資本と明治政府にだけ「富」を生み出す国策産業へと発展していくのである。

幕末の横浜開港から明治前半は、激動の時代である。
歴史と地理を調べるほどに横浜「絹の道」への興味は尽きない。本論では、わずか50年に過ぎない横浜「絹の道」そして「江戸鑓水」として知られた鑓水商人の盛衰に焦点をあててみたい。

幕末に新撰組を生み、維新後は自由民権運動の本拠地となった横浜そして八王子。そこには「横浜八王子文化圏」とも称すべき独特の経済文化圏が成立していた。

生糸貿易が生み出し、ある計画された事件により突然消滅した幻の文化圏の実像を考察していく。

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