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横浜「絹の道」物語 2

Ⅰ 横浜開港 〜「絹の道」の誕生と横浜八王子文化圏の隆盛〜

A 横浜開港と生糸貿易

  1 横浜の開港

安政5年、日米修好通商条約が締結され、日本は長い鎖国を解いて世界に窓を開いた。当初開港した五つの港のうち、江戸に最も近いのが横浜であった。条約では東海道・神奈川宿が開港場とされていたが、実際に開港されたのは神奈川とは浅い湾を挟んで対岸の一寒村の埋立地である。

神奈川宿は東海道の主要な宿場の一つであるとともに、八王子・町田など神奈川内陸と江戸湊を結ぶ水運の拠点でもあり、幕府にとって重要な地点であった。その湊を外国船に開放することは防衛上も好ましくないことから、新たに東海道筋から遠くはなれた埋立地を造成し開港場としたのである。その発想が、長崎に出島を築き外国船を隔離した江戸初期と全く変わっていないことは面白い。

神奈川湊には開港場の代わりにお台場が築かれた。開港場・横浜に入港する外国船をいざという時に砲撃する西洋砲を備えた近代的なものである。ちなみに、戦前の埋立て事業で陸地に取り込まれた神奈川台場は、小さな公園の一画にわずかに石垣を残すのみである。

横浜開港場は、立寄る外国船に食糧や水など補給するだけでなく、東洋の珍しい物産を求める諸外国の貿易商人を多数集めて急速に発展した。
横浜には欧米諸国の貿易船が多数来航し、活発な貿易活動が展開された。欧米諸国にとってアジア貿易は利幅の大きい魅力的なものであったし、日本の商人達にとっても飽和し停滞した国内商業とは異なり、成功の大きなチャンスがあった。

鎖国体制下にあって日本の商業は高度に発展し、既存商人達の緻密な経済流通システムが整備されていた。新規参入などほとんど困難な状況で、既得権のない開港場での商売は、進取の気性に富んだ者には極めて魅力的なものだった。

幕末のこの時期、欧米諸国の最大の貿易先であった中国・清朝は動乱期にあり貿易は停滞していた。その穴を埋めるように日本からの輸出は好調なスタートをきったのだった。幕末の日本は「ついていた」といって良いのだろう。

横浜開港場には、幕府により指定された既存商人のほかにも、投機的商人が様々な物品を持ち込んだのである。

小さな埠頭を中心に日欧の貿易商人の館が建ち並び、横浜は独特の文化を育んでいくのである。

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